820.金沢の歴史

金沢の歴史

「金沢」という都市名は、昔、芋掘藤五郎(典型的な炭焼き長者型のキャラクター)が山芋を洗っていたらそこから砂金が出たため、「金洗いの沢」と呼ばれたという伝説による。「金洗いの沢」は、兼六園内の金沢神社の隣りにあり、現在は「金城霊沢」と呼ばれている。

戦国時代の一向一揆で本願寺の拠点が置かれた尾山御坊(金沢御坊)と、その周辺の寺内町を起源とする。織田信長配下の柴田勝家の甥佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、改築して金沢城とした。後に前田利家が居城としてから、加賀百万石の城下町として繁盛した。

参勤交代の時、前田氏は約2000人の家来を従え、現在の価値で片道約7億円をかけて江戸との間を往来した。金沢は、江戸時代に三都(江戸、大坂、京)に次ぐ日本第4位の人口(約10万人)を擁する大都市として発展し、美術工芸など現在に受け継がれる都市文化が花開いた。

加賀藩は保守的な傾向が強く、幕末には主だった活動をしなかった。廃藩置県の後、藩主であった前田家が拠点を東京へ移し、加賀藩は霞のように消えてしまう。それが一因となり金沢周辺は維新後の近代化に遅れることになる。

明治時代に入ると、士族や商人を中心に人口の著しい減少が続いた。1876年には名古屋(当時は郡区町村編制法および市制施行前)に抜かれて、人口9万7654人ながら全国第5位となり、市制を施行した1889年の年末には9万4257人で、国際貿易港を擁する神戸市・横浜市に抜かれて全国7位となった。しかし、旧制第四高等学校(金沢大学の前身)や陸軍第九師団が置かれ、学都や軍都として栄えるようになると、人口も漸く増加に転じた。1920年には人口12万9265人を擁したが、港湾都市の発展速度の方が速く、長崎市・広島市・函館区・呉市に抜かれて全国11位となった。

金沢は、爆撃機の航続距離の関係で太平洋戦争で空襲を免れた(一説には近代化が遅れたためとも言われる)。このため、経済発展は遅れたものの、江戸時代の文化が豊かに残る小京都の代表格となった。

(参照)Wikipedia http://ja.wikipedia.org/